竹本春子太夫と6代目鶴澤寛治の
義太夫一人語りによる『廓文章』です。
この三味線の素晴らしさ。。。
私が文楽を観ていた昭和40年代は、
間一髪で名人の芸に間に合ったことを幸せに思います。
特に、鶴澤寛治と
野澤喜左衛門の三味線が素晴らしかったです。
父の手で、収録年月不明と添え書きがあります。
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廓文章(くるわぶんしょう)は、歌舞伎の演目。
吉田屋の通称で呼ばれる。
近松門左衛門の人形浄瑠璃『夕霧阿波鳴渡』(ゆうぎりあわのなると)
の「吉田屋の段」を書き替え、
歌舞伎の世話物とした。
『廓文章』の題では1808年(文化5年)が初演と言われる。
夕霧は大坂新町遊郭で有名だった遊女である。
あらすじ
伊左衛門は大坂の大店の若旦那だが、遊女の夕霧に廓通いが重なり、勘当されてしまう。
大晦日も近い冬の日に伊左衛門は夕霧のいる吉田屋にやってくるが、以前は贅沢な身なりをしていたのに、紙(夕霧から来た恋文)を継ぎ合わせた紙衣(かみこ)を着ている。
廓の主人夫婦は一文無しになってしまった伊左衛門を追い返さず、座敷に上げる。夕霧は勘当された若旦那と会うことも出来ず心配で床に伏せりがちだったが、この日は他の客の座敷に出ていた。
気をもむ伊左衛門の元へ、やがて夕霧があらわれ、二人の間でやりとりがある。
そこへ伊左衛門の家から、勘当を許し、夕霧を身請けさせるとの知らせが届く。
2人はめでたく新年を迎えることになる。
6代目 鶴澤寛治
(明治20年(1887年)10月17日 - 昭和49年(1974年)8月20日)本名は白井治三郎。
京都市内の生まれ、明治29年(1896年)に9代目竹澤彌七(当時・鶴澤團六)の門下で初代竹澤團治郎、明治33年(1900年)に2代目鶴澤寛治郎の門下に移り、6代目團六、1937年3月に3代目寛治郎を経て、昭和31年(1956年)1月に道頓堀文楽座「絵本太功記」の尼ケ崎の段で6代目寛治を襲名。
戦後数少ない明治時代の古きよき文楽、浄瑠璃の知る人物として重きをなし3代目竹本津太夫、4代目竹本津太夫の相三味線を務めた。
昭和37年(1962年)に重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定。昭和44年(1968年)に大阪芸術賞。昭和46年(1971年)に毎日芸術賞。昭和47年(1972年)に日本芸術院賞[1]、名古屋演劇ペンクラブ年間賞。昭和59年(1984年)に上方芸能人顕彰。実子に7代目寛治、女婿が4代目竹本津太夫。
3代目 竹本春子太夫
(明治42年(1909年)6月20日 - 昭和44年(1969年)4月26日)本名は坂本竹一。
兵庫県淡路島の生まれ、淡路の人形芝居出身。1926年から竹本広滝に師事、1927年に竹本三笠太夫に入門し竹本三木太夫を名乗り徳島の上村源之丞座や淡路市村六之丞座など地方で人気を得る。
1940年に3代目豊竹呂太夫(のちの10代目豊竹若太夫)の門下で豊竹呂賀大夫と改名し翌年の1941年に正式に四ツ橋文楽座「野崎村」ツレで初舞台。
1943年6月に松竹の白井松次郎から一字譲られ初代豊竹松太夫と改名。
相三味線を勤めた4代目鶴澤清六の薫陶を受けた。
1960年11月に3代目春子太夫を襲名。1963年1月に切り場語り。
出典:ウィキペディア(Wikipedia)
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